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路上(ろじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:15:37  点击:  切换到繁體中文



        十一

 辰子(たつこ)は蒼白い頬(ほお)に片靨(かたえくぼ)を寄せたまま、静に民雄(たみお)から初子(はつこ)へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨(またが)って、辷(すべ)り下りようとなさるんでしょう。私吃驚(びっくり)して、墜(お)ちて死んだらどうなさるのって云ったら――ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有(おっしゃ)ったわね。私可笑(おか)しくって――」
「成程(なるほど)ね、こりゃ却々(なかなか)哲学的だ。」
 野村(のむら)はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気(なまいき)ったらないのね。――だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦(ばか)だって。」
 部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮(あざやか)になった初子が、ちょっと睨(ね)める真似をしながら、こう弟を窘(たしな)めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧(りこう)か?」
 今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
 民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目(びもく)の間(あいだ)に閃かせて、
「中位(ちゅうぐらい)。」と道破(どうは)した。
 四人は声を合せて失笑した。
「中位(ちゅうぐらい)は好かった。大人(おとな)もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺(けんけんふくよう)すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが――」
 その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野村さん私ばかりいじめるわね。」
「じゃ僕はどうだ。」
 俊助は冗談(じょうだん)のように野村の矢面(やおもて)に立った。
「君もいかん。君は中位(ちゅうぐらい)を以て自任(じにん)出来ない男だ。――いや、君ばかりじゃない。近代の人間と云うやつは、皆中位で満足出来ない連中だ。そこで勢い、主我的(イゴイスティック)になる。主我的(イゴイスティック)になると云う事は、他人ばかり不幸にすると云う事じゃない。自分までも不幸にすると云う事だ。だから用心しなくっちゃいけない。」
「じゃ君は中位派(ちゅうぐらいは)か。」
「勿論さ。さもなけりゃ、とてもこんな泰然としちゃいられはしない。」
 俊助は憫(あわれ)むような眼つきをして、ちらりと野村の顔を見た。
「だがね、主我的(イゴイスティック)になると云う事は、自分ばかり不幸にする事じゃない。他人までも不幸にする事だ。だろう。そうするといくら中位派でも、世の中の人間が主我的(イゴイスティック)だったら、やっぱり不安だろうじゃないか。だから君のように泰然としていられるためには、中位派たる以上に、主我的(イゴイスティック)でない世の中を――でなくとも、先ず主我的(イゴイスティック)でない君の周囲を信用しなけりゃならないと云う事になる。」
「そりゃまあ信用しているさ。が、君は信用した上でも――待った。一体君は全然人間を当てにしていないのか。」
 俊助はやはり薄笑いをしたまま、しているとも、していないとも答えなかった。初子と辰子との眼がもの珍らしそうに、彼の上へ注がれているのを意識しながら。

        十二

 音楽会が終った後で、俊助(しゅんすけ)はとうとう大井(おおい)と藤沢(ふじさわ)とに引きとめられて、『城』同人(どうじん)の茶話会(さわかい)に出席しなければならなくなった。彼は勿論進まなかった。が、藤沢以外の同人には、多少の好奇心もない事はなかった。しかも切符を貰っている義理合い上、無下(むげ)に断(ことわ)ってしまうのも気の毒だと云う遠慮があった。そこで彼はやむを得ず、大井と藤沢との後について、さっきの次の間(ま)の隣にある、小さな部屋へ通ったのだった。
 通って見ると部屋の中には、もう四五人の大学生が、フロックの清水昌一(しみずしょういち)と一しょに、小さな卓子(テエブル)を囲んでいた。藤沢はその連中を一々俊助に紹介した。その中では近藤(こんどう)と云う独逸(ドイツ)文科(ぶんか)の学生と、花房(はなぶさ)と云う仏蘭西(フランス)文科の学生とが、特に俊助の注意を惹(ひ)いた人物だった。近藤は大井よりも更に背の低い、大きな鼻眼鏡をかけた青年で、『城』同人の中では第一の絵画通と云う評判を荷っていた。これはいつか『帝国文学(ていこくぶんがく)』へ、堂々たる文展(ぶんてん)の批評を書いたので、自然名前だけは俊助の記憶にも残っているのだった。もう一人の花房は、一週間以前『鉢(はち)の木(き)』へ藤沢と一しょに来た黒のソフトで、英仏独伊の四箇国語(しかこくご)のほかにも、希臘語(ギリシャご)や羅甸語(ラテンご)の心得があると云う、非凡な語学通で通っていた。そうしてこれまた Hanabusa と署名のある英仏独伊希臘羅甸の書物が、時々本郷通(ほんごうどおり)の古本屋(ふるぼんや)に並んでいるので、とうから名前だけは俊助も承知している青年だった。この二人に比(くら)べると、ほかの『城』同人は存外特色に乏しかった。が、身綺麗(みぎれい)な服装の胸へ小さな赤薔薇(あかばら)の造花(ぞうか)をつけている事は、いずれも軌(き)を一にしているらしかった。俊助は近藤の隣へ腰を下しながら、こう云うハイカラな連中に交(まじ)っている大井篤夫(おおいあつお)の野蛮(やばん)な姿を、滑稽に感ぜずにはいられなかった。
「御蔭様で、今夜は盛会でした。」
 タキシイドを着た藤沢は、女のような柔(やさ)しい声で、まず独唱家(ソロイスト)の清水に挨拶した。
「いや、どうもこの頃は咽喉(のど)を痛めているもんですから――それより『城』の売行きはどうです? もう収支償(つぐな)うくらいには行くでしょう。」
「いえ、そこまで行ってくれれば本望なんですが――どうせ我々の書く物なんぞが、売れる筈はありゃしません。何しろ人道主義と自然主義と以外に、芸術はないように思っている世間なんですから。」
「そうですかね。だがいつまでも、それじゃすまないでしょう。その内に君の『ボオドレエル詩抄』が、羽根(はね)の生えたように売れる時が来るかも知れない。」
 清水は見え透いた御世辞を云いながら、給仕の廻して来た紅茶を受けとると、隣に坐っていた花房(はなぶさ)の方を向いて、
「この間の君の小説は、大へん面白く拝見しましたよ。あれは何から材料を取ったんですか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
 清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)できな臭(くさ)い刻(きざ)みを吹かせていた大井が、卓子(テエブル)の上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛(ほう)りつけた。

        十三

「中世の伝説を集めた本でしてね。十四五世紀の間(あいだ)に出来たものなんですが、何分(なにぶん)原文がひどい羅甸(ラテン)なんで――」
「君にも読めないかい。」
「まあ、どうにかですね。参考にする飜訳(ほんやく)もいろいろありますから。――何でもチョオサアやシェクスピイアも、あれから材料を採(と)ったんだそうです。ですからゲスタ・ロマノルムだって、中々莫迦(ばか)には出来ませんよ。」
「じゃ君は少くとも材料だけは、チョオサアやシェクスピイアと肩を並べていると云う次第だね。」
 俊助はこう云う問答を聞きながら、妙な事を一つ発見した。それは花房(はなぶさ)の声や態度が、不思議なくらい藤沢(ふじさわ)に酷似(こくじ)していると云う事だった。もし離魂病(りこんびょう)と云うものがあるとしたならば、花房は正に藤沢の離魂体(ドッペルゲンゲル)とも見るべき人間だった。が、どちらが正体(しょうたい)でどちらが影法師(かげぼうし)だか、その辺の際どい消息になると、まだ俊助にははっきりと見定めをつける事がむずかしかった。だから彼は花房の饒舌(しゃべ)っている間も、時々胸の赤薔薇(あかばら)を気にしている藤沢を偸(ぬす)み見ずにはいられなかった。
 すると今度はその藤沢が、縁(ふち)に繍(ぬい)のある手巾(ハンケチ)で紅茶を飲んだ口もとを拭いながら、また隣の独唱家(ソロイスト)の方を向いて、
「この四月には『城』も特別号を出しますから、その前後には近藤(こんどう)さんを一つ煩(わずら)わせて、展覧会を開こうと思っています。」
「それも妙案ですな。が、展覧会と云うと、何ですか、やはり諸君の作品だけを――」
「ええ、近藤さんの木版画と、花房さんや私(わたし)の油絵と――それから西洋の画の写真版とを陳列しようかと思っているんです。ただ、そうなると、警視庁がまた裸体画は撤回(てっかい)しろなぞとやかましい事を云いそうでしてね。」
「僕の木版画は大丈夫だが、君や花房君の油絵は危険だぜ。殊に君の『Utamaro の黄昏(たそがれ)』に至っちゃ――あなたはあれを御覧になった事がありますか。」
 こう云って、鼻眼鏡の近藤はマドロス・パイプの煙を吐きながら、流し眼にじろりと俊助の方を見た。と、俊助がまだ答えない内に、卓子(テエブル)の向うから藤沢が口を挟(はさ)んで、
「そりゃ君、まだ御覧にならないのですよ。いずれその内に、御眼にかけようとは思っているんですが――安田さんは絵本歌枕(えほんうたまくら)と云うものを御覧になった事がありますか。ありません? 私の『Utamaro の黄昏』は、あの中の一枚を装飾的に描(か)いたものなんです。行き方は――と、近藤さん、あれは何と云ったら好いんでしょう。モオリス・ドニでもなし、そうかと云って――」
 近藤は鼻眼鏡の後(うしろ)の眼を閉じてしばらく考に耽(ふけ)っていたが、やがて重々しい口を開こうとすると、また大井が横合いから、鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)を啣(くわ)えたままで、
「つまり君、春画(しゅんが)みたいなものなんだろう。」と、乱暴な註釈を施(ほどこ)してしまった。
 ところが藤沢は存外不快にも思わなかったと見えて、例のごとく無気味(ぶきみ)なほど柔しい微笑を漂わせながら、
「ええ、そう云えば一番早いかも知れませんね。」と、恬然(てんぜん)として大井に賛成した。

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