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路上(ろじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:15:37  点击:  切换到繁體中文



        二十九

 初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助(しゅんすけ)の肩を叩くと、
「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、
「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」
 俊助は新田の云う通り、おとなしくその後(あと)について、明るい応接室からうす暗い廊下(ろうか)へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、鼠(ねずみ)の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を開(あ)いて、涎(よだれ)を垂らして、両手を翼(つばさ)のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、
「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。
「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山(ばんだいさん)が破裂するそうで、――昨晩(さくばん)もその御相談に、神々が上野(うえの)へ御集りになったようでございました。」
 老人は目脂(めやに)だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着(とんちゃく)する気色(けしき)もなく、俊助の方を振返って、
「どうだ。」と、嘲るような声を出した。
 俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、癇(かん)の強そうな男の前へ行って、
「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」
 が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許(ちょうきょ)してくれませんからね。」
 新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然(もくねん)と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好(い)い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻(さい)の方じゃ帰りたがっているんですが、――」
 その患者(かんじゃ)はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴(つ)れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻(さい)をひっかけた――」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
 新田は無造作(むぞうさ)に調子を合わすと、三度(みたび)俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄(のうずい)を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味(しろみ)のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
 俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山(ばんだいさん)の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」
 新田は前後左右に蠢(うごめ)いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。

        三十

 初子(はつこ)と辰子(たつこ)とを載せた上野行(うえのゆき)の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場(ていりゅうば)から動き出した。俊助(しゅんすけ)はちょいと角帽(かくぼう)をとって、窓の内の吊皮(つりかわ)にすがっている二人の女に会釈(えしゃく)をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中(うち)にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那(せつな)の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止(あまや)みを待っていた彼女の姿が、稲妻(いなずま)のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
 その後を見送った俊助は、まだ一種の興奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行(ほんごうゆき)の電車へ乗って、索漠(さくばく)たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮(ひぐれ)が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓(ショウウインドウ)の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢(こずえ)にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下(じきげ)に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
 その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店(カッフェ)で、食後の林檎(りんご)を剥(む)いていた。彼の前には硝子(ガラス)の一輪挿しに、百合(ゆり)の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子(テエブル)を囲みながら、綺麗(きれい)に化粧した給仕女と盛に饒舌(しゃべ)ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院(てんきょういん)の応接室を領していた、懶(ものう)い午後の沈黙を思った。室咲(むろざ)きの薔薇(ばら)、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気(なにげ)なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開(あ)いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫(おおいあつお)が、燈火(ともしび)の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店(カッフェ)の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子(テエブル)の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染(おなじみ)じゃないか。」
 俊助はこう冷評(ひやか)しながら、大井に愛想(あいそ)を売っている給仕女を一瞥(いちべつ)した。
「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店(カッフェ)、酒場(バア)、ないしは下(くだ)って縄暖簾(なわのれん)の類(たぐい)まで、ことごとく僕の御馴染(おなじみ)なんだ。」
 大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照(ほて)らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。

        三十一

「但し御馴染(おなじみ)だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
 大井(おおい)は急に調子を下げて、嘲笑(あざわら)うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)(ね)じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄(おうへい)な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦(ばか)にするな。こう見えたって――少くとも、この家(うち)へは来ているじゃないか。」
 この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆(サルヴァ)へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括(くく)り頤(あご)の、眼の大きい、白粉(おしろい)の下に琥珀色(こはくいろ)の皮膚(ひふ)が透(す)いて見える、健康そうな娘だった。俊助(しゅんすけ)はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼(ま)なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子(テエブル)の上へ移した時、二三日前に郁文堂(いくぶんどう)であの土耳其帽(トルコぼう)の藤沢(ふじさわ)が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面(おくめん)なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田(やすだ)と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お藤(ふじ)さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
 俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥(しゅうち)の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨(ね)めると、そのまま派手な銘仙(めいせん)の袂(たもと)を飜(ひるがえ)して、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々(そうそう)帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿(うしろすがた)を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子(テエブル)の上のウイスキイをぐいとやって、
「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。
「うん、素直そうな好い女だ。」
「いかん、いかん。僕の云っているのは、お藤(ふじ)の――お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫(おおいあつお)にとって、あってもなくっても同じ事だ。」
 俊助は相手にならないで、埃及(エジプト)の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子(テエブル)越しに手をのばして、俊助の鼈甲(べっこう)の巻煙草入から金口(きんぐち)を一本抜きとりながら、
「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目(もうもく)だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。
「そりゃ君ほど烱眼(けいがん)じゃないが。」
「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」
 俊助は何を措(お)いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄(だんぺい)をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。

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