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路上(ろじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:15:37  点击:  切换到繁體中文



        十四

「成程、そりゃ面白そうだ。――ところでどうでしょう、春画(しゅんが)などと云う物は、やっぱり西洋の方が発達しているんですか。」
 清水(しみず)がこう尋(たず)ねたのを潮(しお)に、近藤(こんどう)は悠然とマドロス・パイプの灰をはたきながら、大学の素読(そどく)でもしそうな声で、徐(おもむろ)に西洋の恁(こ)うした画の講釈をし始めた。
「一概に春画と云いますが、まあざっと三種類に区別するのが至当なので、第一は××××を描いたもの、第二はその前後だけを描いたもの、第三は単に××××を描いたもの――」
 俊助(しゅんすけ)は勿論こう云う話題に、一種の義憤を発するほど、道徳家でないには相違なかった。けれども彼には近藤の美的偽善(ぎぜん)とも称すべきものが――自家の卑猥(ひわい)な興味の上へ芸術的と云う金箔(きんぱく)を塗りつけるのが、不愉快だったのもまた事実だった。だから近藤が得意になって、さも芸術の極致が、こうした画にあるような、いかがわしい口吻(こうふん)を弄(ろう)し出すと、俊助は義理にも、金口(きんぐち)の煙に隠れて、顔をしかめない訳には行かなかった。が、近藤はそんな事には更に気がつかなかったものと見えて、上(かみ)は古代希臘(ギリシャ)の陶画から下(しも)は近代仏蘭西(フランス)の石版画まで、ありとあらゆるこうした画の形式を一々詳しく説明してから、
「そこで面白い事にはですね、あの真面目(まじめ)そうなレムブラントやデュラアまでが、斯(こ)ういう画を描(か)いているんです。しかもレムブラントのやつなんぞは、やっぱり例のレムブラント光線が、ぱっと一箇所に落ちているんだから、振(ふる)っているじゃありませんか。つまりああ云う天才でも、やっぱりこの方面へ手を出すぐらいな俗気(ぞくき)は十分あったんで――まあ、その点は我々と似たり寄ったりだったんでしょう。」
 俊助はいよいよ聞き苦しくなった。すると今まで卓子(テエブル)の上へ頬杖(ほおづえ)をついて、半ば眼をつぶっていた大井(おおい)が、にやりと莫迦(ばか)にしたような微笑を洩(もら)すと、欠伸(あくび)を噛み殺したような声を出して、
「おい、君、序(ついで)にレムブラントもデュラアも、我々同様屁(へ)を垂れたと云う考証を発表して見ちゃどうだ。」
 近藤は大きな鼻眼鏡の後(うしろ)から、険(けわ)しい視線を大井へ飛ばせたが、大井は一向(いっこう)平気な顔で、鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)をすぱすぱやりながら、
「あるいは百尺竿頭一歩(ひゃくせきかんとういっぽ)を進めて、同じく屁を垂れるから、君も彼等と甲乙のない天才だと号するのも洒落(しゃ)れているぜ。」
「大井君、よし給えよ。」
「大井さん。もう好(い)いじゃありませんか。」
 見兼ねたと云う容子(ようす)で、花房(はなぶさ)と藤沢(ふじさわ)とが、同時に柔(やさ)しい声を出した。と、大井は狡猾(ずる)そうな眼で、まっ青になった近藤の顔をじろじろ覗きこみながら、
「こりゃ失敬したね。僕は何も君を怒らす心算(つもり)で云ったんじゃないんだが――いや、ない所か、君の知識の該博(がいはく)なのには、夙(つと)に敬服に堪えないくらいなんだ。だからまあ、怒らないでくれ給え。」
 近藤は執念(しゅうねん)深く口を噤(つぐ)んで、卓子(テエブル)の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気(あっけ)に取られている連中を後(あと)に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯(そらうそぶ)いている大井の方へ、ちょいと顎(あご)で相図(あいず)をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免(ごめん)を蒙るから。――」
 これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。

        十五

 するとその後(ご)また一週間と経たない内に、俊助(しゅんすけ)は上野行の電車の中で、偶然辰子(たつこ)と顔を合せた。
 それは春先の東京に珍しくない、埃風(ほこりかぜ)の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋(やたや)へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町(おわりちょう)の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸(ショオル)をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮(つりかわ)にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨(かたえくぼ)を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈(えしゃく)を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は――」と、平凡に挨拶(あいさつ)した。
「私(わたし)こそ――」
 それぎり二人は口を噤(つぐ)んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩(くず)れるように後(うしろ)へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日(きょう)は?――御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで――国許(くにもと)の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
 俊助は次第に二人の間の他人行儀(たにんぎょうぎ)が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅(しんく)の旗が、喇叭(らっぱ)や太鼓(たいこ)の音を風に飛ばせながら、瞬(またた)く間(ま)電車の窓を塞(ふさ)いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶(みみたぶ)が、斜(ななめ)にさして来る日の光を受けて、仄(ほの)かに赤く透(す)いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。
「先達(せんだって)は、あれからすぐに御帰りになって。」
 辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐(ひとなつか)しい声でこう云った。
「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」
「御宅はやはり本郷(ほんごう)?」
「そうです。森川町(もりかわちょう)。」
 俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉(サファイア)を入れた金の指環(ゆびわ)が、細っそりとその小指を繞(めぐ)っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。
「大学の正門前の横町(よこちょう)です。その内に遊びにいらっしゃい。」
「難有(ありがと)う。いずれ初子(はつこ)さんとでも。」
 辰子は名刺を帯の間へ挟(はさ)んで、ほとんど聞えないような返事をした。
 二人はまた口を噤(つぐ)んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。

        十六

 俊助(しゅんすけ)の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺(きょうばしへん)の酒屋の隠居所を、ある伝手(つて)から二階だけ貸して貰ったので、畳(たたみ)建具(たてぐ)も世間並の下宿に比べると、遥(はるか)に小綺麗(こぎれい)に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机(デスク)や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心(いごころ)は悪くない程度の西洋風な書斎を拵(こしら)え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋(うず)めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵(たいてい)はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に据えてある寄せ木の卓子(テエブル)の上へ置いた。現に今日も、この卓子(テエブル)の上には、籐(とう)の籠へ入れた桜草(さくらそう)の鉢が、何本も細い茎を抽(ぬ)いた先へ、簇々(ぞくぞく)とうす赤い花を攅(あつ)めている。……
 須田町(すだちょう)の乗換で辰子(たつこ)と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机(デスク)の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口(きんぐち)の煙草(たばこ)を啣(くわ)えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙(ぞうげ)の紙切小刀(ペエパアナイフ)を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼(そしゃく)するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這(は)い纏(まつわ)っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。
 すると机の上の灰皿(はいざら)に、二三本吸いさしの金口(きんぐち)がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙(からかみ)の向うへ立止ったけはいがすると、
「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。
「はいり給え。」
 俊助がこう答える間(ま)も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子(テエブル)の向うには、もう肥った野村(のむら)の姿が、肩を揺(ゆす)ってのそのそはいって来た。
「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」
 始めてこの下宿へ来た野村は、万遍(まんべん)なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。
「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾(つんぼ)だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。――君は学校の帰りか。」
 俊助は卓子(テエブル)の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。
「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って――明後日(あさって)がちょうど親父(おやじ)の三回忌に当るものだから。」
「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」
「何、その方は慣れているから平気だが、とかく田舎の年忌(ねんき)とか何とか云うやつは――」
 野村は前以て辟易(へきえき)を披露(ひろう)するごとく、近眼鏡の後(うしろ)の眉をひそめて見せたが、すぐにまた気を変えて、
「ところで僕は君に一つ、頼みたい事があって寄ったのだが――」

        十七

「何だい、改まって。」
 俊助(しゅんすけ)は紅茶茶碗を野村(のむら)の前へ置くと、自分も卓子(テエブル)の前の椅子へ座を占めて、不思議そうに相手の顔へ眼を注いだ。
「改まりなんぞしやしないさ。」
 野村は反(かえ)って恐縮らしく、五分刈(ごぶがり)の頭を撫(な)で廻したが、
「実は例の癲狂院(てんきょういん)行きの一件なんだが――どうだろう。君が僕の代りに初子(はつこ)さんを連れて行って、見せてやってくれないか。僕は今日行くと、何(なん)だ彼(かん)だで一週間ばかりは、とても帰られそうもないんだから。」
「そりゃ困るよ。一週間くらいかかったって、帰ってから、君が連れて行きゃ好いじゃないか。」
「ところが初子さんは、一日も早く見たいと云っているんだ。」
 野村は実際困ったような顔をして、しばらくは壁に懸っている写真版へ、順々に眼をくばっていたが、やがてその眼がレオナルドのレダまで行くと、
「おや、あれは君、辰子(たつこ)さんに似ているじゃないか。」と、意外な方面へ談柄(だんぺい)を落した。
「そうかね。僕はそうとも思わないが。」
 俊助はこう答えながら、明かに嘘をついていると云う自覚があった。それは勿論彼にとって、面白くない自覚には相違なかった。が、同時にまた、小さな冒険をしているような愉快が潜(ひそ)んでいたのも事実だった。
「似ている。似ている。もう少し辰子さんが肥っていりゃ、あれにそっくりだ。」
 野村は近眼鏡の下からしばらくレダを仰いでいた後で、今度はその眼を桜草(さくらそう)の鉢へやると、腹の底から大きな息をついて、
「どうだ。年来の好誼(こうぎ)に免じて、一つ案内役を引き受けてくれないか。僕はもう君が行ってくれるものと思って、その旨を初子さんまで手紙で通知してしまったんだが。」
 俊助の舌の先には、「そりゃ君の勝手じゃないか」と云う言葉があった。が、その言葉がまだ口の外へ出ない内に、彼の頭の中へは刹那(せつな)の間、伏目になった辰子の姿が鮮かに浮び上って来た。と、ほとんどそれが相手に通じたかのごとく、野村は安楽椅子の肘を叩きながら、
「初子さん一人なら、そりゃ君の辟易(へきえき)するのも無理はないが、辰子さんも多分――いや、きっと一しょに行くって云っていたから、その辺の心配はいらないんだがね。」
 俊助は紅茶茶碗を掌(てのひら)に載せたまま、しばらくの間考えた。行く行かないの問題を考えるのか、一度断った依頼をまた引受けるために、然るべき口実を考えるのか――それも彼には判然しないような心もちがした。
「そりゃ行っても好(い)いが。」
 彼は現金すぎる彼自身を恥じながら、こう云った後で、追いかけるように言葉を添えずにはいられなかった。
「そうすりゃ、久しぶりで新田(にった)にも会えるから。」
「やれ、やれ、これでやっと安心した。」
 野村はさもほっとしたらしく、胸の釦(ボタン)を二つ三つ外すと、始めて紅茶茶碗を口へつけた。

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