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路上(ろじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:15:37  点击:  切换到繁體中文



        七

 一週間の後(のち)、俊助(しゅんすけ)は築地(つきじ)の精養軒(せいようけん)で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色(けしき)はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。中には大学の西洋人の教師も、一人二人は来ているらしかった。俊助は、大きな護謨(ごむ)の樹の鉢植が据えてある部屋の隅に佇(たたず)みながら、別に開会を待ち兼ねるでもなく、ぼんやり周囲の話し声に屈托(くったく)のない耳を傾けていた。
 するとどこからか大井篤夫(おおいあつお)が、今日は珍しく制服を着て、相不変(あいかわらず)傲然(ごうぜん)と彼の側へ歩いて来た。二人はちょいと点頭(てんとう)を交換した。
「野村はまだ来ていないか。」
 俊助がこう尋ねると、大井は胸の上に両手を組んで、反身(そりみ)にあたりを見廻しながら、
「まだ来ないようだ。――来なくって仕合せさ。僕は藤沢(ふじさわ)にひっぱられて来たもんだから、もうかれこれ一時間ばかり待たされている。」
 俊助は嘲(あざけ)るように微笑した。
「君がたまに制服なんぞ着て来りゃ、どうせ碌(ろく)な事はありゃしない。」
「これか。これは藤沢の制服なんだ。彼曰(いわく)、是非僕の制服を借りてくれ給え、そうすると僕はそれを口実に、親爺(おやじ)のタキシイドを借りるから。――そこでやむを得ず、僕がこれを着て、聴きたくもない音楽会なんぞへ出たんだ。」
 大井はあたり構わずこんな事を饒舌(しゃべ)りながら、もう一度ぐるり部屋の中を見渡して、それから、あすこにいるのは誰、ここにいるのは誰と、世間に名の知られた作家や画家を一々俊助に教えてくれた。のみならず序(ついで)を以て、そう云う名士たちの醜聞(スカンダアル)を面白そうに話してくれた。
「あの紋服と来た日にゃ、ある弁護士の細君をひっかけて、そのいきさつを書いた小説を御亭主の弁護士に献じるほど、すばらしい度胸のある人間なんだ。その隣のボヘミアン・ネクタイも、これまた詩よりも女中に手をつけるのが、本職でね。」 
 俊助はこんな醜い内幕(うちまく)に興味を持つべく、余りに所謂(いわゆる)ニル・アドミラリな人間だった。ましてその時はそれらの芸術家の外聞(がいぶん)も顧慮してやりたい気もちがあった。そこで彼は大井が一息ついたのを機会(しお)にして、切符と引換えに受取ったプログラムを拡げながら、話題を今夜演奏される音楽の方面へ持って行った。が、大井はこの方面には全然無感覚に出来上っていると見えて、鉢植(はちうえ)の護謨(ごむ)の葉を遠慮なく爪でむしりながら、
「とにかくその清水昌一(しみずしょういち)とか云う男は、藤沢なんぞの話によると、独唱家(ソロイスト)と云うよりゃむしろ立派な色魔だね。」と、また話を社会生活の暗黒面へ戻してしまった。
 が、幸(さいわい)、その時開会を知らせるベルが鳴って、会場との境の扉(と)がようやく両方へ開かれた。そうして待ちくたびれた聴衆が、まるで潮(うしお)の引くように、ぞろぞろその扉口(とぐち)へ流れ始めた。俊助も大井と一しょにこの流れに誘われて、次第に会場の方へ押されて行ったが、何気(なにげ)なく途中で後を振り返ると、思わず知らず心の中で「あっ」と云う驚きの声を洩(も)らした。

        八

 俊助(しゅんすけ)は会場の椅子(いす)に着いた後(あと)でさえ、まだ全くさっきの驚きから恢復していない事を意識した。彼の心はいつになく、不思議な動揺を感じていた。それは歓喜とも苦痛とも弁別(べんべつ)し難い性質のものだった。彼はこの心の動揺に身を任(まか)せたいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎(もたら)さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫(くふう)をした。
 金屏風(きんびょうぶ)を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額(ひたい)に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔(やさ)しくシュウマンを唱(うた)った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌(リイド)だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立(いらだ)てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱(ソロ)が終って、けたたましい拍手(はくしゅ)の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井(おおい)を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家(ソロイスト)を覗(のぞ)いていたが、
「成程(なるほど)、清水(しみず)と云う男は、立派(りっぱ)に色魔たるべき人相(にんそう)を具えているな。」と、呟(つぶや)くような声で云った。
 俊助は初めてその中年の紳士が清水昌一(しみずしょういち)と云う男だったのに気がついた。そこでまた演壇の方へ眼を返すと、今度はそこへ裾模様の令嬢が、盛な喝采(かっさい)に迎えられながら、ヴァイオリンを抱(だ)いてしずしずと登って来る所だった。令嬢はほとんど人形のように可愛かったが、遺憾ながらヴァイオリンはただ間違わずに一通り弾いて行くと云うだけのものだった。けれども俊助は幸(さいわい)と、清水昌一のシュウマンほど悪甘い刺戟に脅(おびや)かされないで、ともかくも快よくチャイコウスキイの神秘な世界に安住出来るのを喜んだ。が、大井はやはり退屈らしく、後頭部を椅子の背に凭(もた)せて、時々無遠慮に鼻を鳴らしていたが、やがて急に思いついたという調子で、
「おい、野村君が来ているのを知っているか。」
「知っている。」
 俊助は小声でこう答えながら、それでもなお眼は金屏風の前の令嬢からほかへ動かさなかった。と、大井は相手の答が物足らなかったものと見えて、妙に悪意のある微笑を漂わせながら、
「おまけにすばらしい美人を二人連れて来ている。」と、念を押すようにつけ加えた。
 が、俊助は何とも答えなかった。そうして今までよりは一層熱心に演壇の上から流れて来るヴァイオリンの静かな音色(ねいろ)に耳を傾けているらしかった。……
 それからピアノの独奏と四部合唱とが終って、三十分の休憩時間になった時、俊助は大井に頓着(とんちゃく)なく、逞(たくまし)い体を椅子(いす)から起して、あの護謨(ごむ)の樹の鉢植のある会場の次の間へ、野村の連中を探しに行った。しかし後に残った大井の方は、まだ傲然(ごうぜん)と腕組みをしたまま、ただぐったりと頭を前へ落して、演奏が止んだのも知らないのか、いかにも快よさそうに、かすかな寝息を洩らしていた。

        九

 次の間(ま)へ来て見ると、果して野村(のむら)が栗原(くりはら)の娘と並んで、大きな暖炉(だんろ)の前へ佇(たたず)んでいた。血色(けっしょく)の鮮かな、眼にも眉(まゆ)にも活々(いきいき)した力の溢(あふ)れている、年よりは小柄(こがら)な初子(はつこ)は、俊助(しゅんすけ)の姿を見るが早いか、遠くから靨(えくぼ)を寄せて、気軽くちょいと腰をかがめた。と、野村も広い金釦(きんボタン)の胸を俊助の方へ向けながら、度の強い近眼鏡の後(うしろ)に例のごとく人の好さそうな微笑を漲(みなぎ)らせて、鷹揚(おうよう)に「やあ」と頷(うなず)いて見せた。俊助は暖炉の上の鏡を背負って、印度更紗(インドさらさ)の帯をしめた初子と大きな体を制服に包んだ野村とが、向い合って立っているのを眺めた時、刹那(せつな)の間(あいだ)彼等の幸福が妬(ねたま)しいような心もちさえした。
「今夜はすっかり遅くなってしまった。何しろ僕等の方は御化粧に手間が取れるものだから。」
 俊助と二言(ふたこと)三言(みこと)雑談を交換した後で、野村は大理石のマントル・ピイスへ手をかけながら、冗談のような調子でこう云った。
「あら、いつ私(わたし)たちが御手間を取らせて? 野村さんこそ御出でになるのが遅かったじゃないの?」
 初子はわざと濃(こ)い眉をひそめて、媚(こ)びるように野村の顔を見上げたが、すぐにまたその視線を俊助の方へ投げ返すと、
「先日は私妙な事を御願いして――御迷惑じゃございませんでしたの?」
「いや、どうしまして。」
 俊助はちょいと初子に会釈(えしゃく)しながら、後はやはり野村だけへ話しかけるような態度で、
「昨日(きのう)新田(にった)から返事が来たが、月水金の内でさえあれば、いつでも喜んで御案内すると云うんだ。だからその内で都合(つごう)の好(い)い日に参観して来給え。」
「そうか。そりゃ難有(ありがと)う。――で、初子さんはいつ行って見ます?」
「いつでも。どうせ私用のない体なんですもの。野村さんの御都合で極(き)めて頂けば好いわ。」
「僕が極(き)めるって――じゃ僕も随行を仰せつかるんですか。そいつは少し――」
 野村は五分刈(ごぶがり)の頭へ大きな手をやって、辟易(へきえき)したらしい気色を見せた。と、初子は眼で笑いながら、声だけ拗(す)ねた調子で、
「だって私その新田さんって方にも、御目にかかった事がないんでしょう。ですもの、私たちだけじゃ行かれはしないわ。」
「何、安田の名刺を貰って行けば、向うでちゃんと案内してくれますよ。」
 二人がこんな押問答を交換していると、突然、そこへ、暁星学校(ぎょうせいがっこう)の制服を着た十(とお)ばかりの少年が、人ごみの中をくぐり抜けるようにして、勢いよく姿を現した。そうしてそれが俊助の顔を見ると、いきなり直立不動の姿勢をとって、愛嬌(あいきょう)のある挙手(きょしゅ)の礼をして見せた。こちらの三人は思わず笑い出した。中でも一番大きな声を出して笑ったのは、野村だった。
「やあ、今夜は民雄(たみお)さんも来ていたのか。」
 俊助は両手で少年の肩を抑えながら、調戯(からか)うようにその顔を覗(のぞ)きこんだ。
「ああ、皆で自動車へ乗って来たの。安田さんは?」
「僕は電車で来た。」
「けちだなあ、電車だなんて。帰りに自動車へ乗せて上げようか。」
「ああ、乗せてくれ給え。」
 この間(あいだ)も俊助は少年の顔を眺めながら、しかも誰かが民雄の後(あと)を追って、彼等の近くへ歩み寄ったのを感ぜずにはいられなかった。

        十

 俊助(しゅんすけ)は眼を挙げた。と、果して初子(はつこ)の隣に同年輩の若い女が、紺地に藍の竪縞(たてじま)の着物の胸を蘆手模様(あしでもよう)の帯に抑えて、品よくすらりと佇(たたず)んでいた。彼女は初子より大柄(おおがら)だった。と同時に眼鼻立ちは、愛くるしかるべき二重瞼(ふたえまぶた)までが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、潤(うる)んだ光さえ湛(たた)えていた。さっき会場へはいろうとする間際に、偶然後(うしろ)へ振り返った、俊助の心を躍らせたものは、実にこのもの思わしげな、水々しい瞳(ひとみ)の光だった。彼はその瞳の持ち主と咫尺(しせき)の間に向い合った今、再び最前の心の動揺を感じない訳には行かなかった。
「辰子(たつこ)さん。あなたまだ安田さんを御存知なかったわね。――辰子さんと申しますの。京都の女学校を卒業なすった方(かた)。この頃やっと東京詞(とうきょうことば)が話せるようになりました。」
 初子は物慣(ものな)れた口ぶりで、彼女を俊助に紹介した。辰子は蒼白い頬(ほお)の底にかすかな血の色を動かして、淑(しとや)かに束髪(そくはつ)の頭を下げた。俊助も民雄の肩から手を離して、叮嚀(ていねい)に初対面の会釈(えしゃく)をした。幸(さいわい)、彼の浅黒い頬がいつになく火照(ほて)っているのには、誰も気づかずにいたらしかった。
 すると野村も横合いから、今夜は特に愉快そうな口を出して、
「辰子さんは初子さんの従妹(いとこ)でね、今度絵の学校へはいるものだから、それでこっちへ出て来る事になったんだ。所が毎日初子さんが例の小説の話ばかり聞かせるので、余程体にこたえるのだろう。どうもこの頃はちと健康が思わしくない。」
「まあ、ひどい。」
 初子と辰子とは同時にこう云った。が、辰子の声は、初子のそれに気押(けお)されて、ほとんど聞えないほど低い声だった。けれども俊助は、この始めて聞いた辰子の声の中に、優しい心を裏切るものが潜んでいるような心もちがした。それが彼には心強い気を起させた。
「画と云うと――やはり洋画を御やりになるのですか。」
 相手の声に勇気を得た俊助は、まだ初子と野村とが笑い合っている内に、こう辰子へ問いかけた。辰子はちょいと眼を帯止(おびど)めの翡翠(ひすい)へ落して、
「は。」と、思ったよりもはっきりした返事をした。
「画は却々(なかなか)うまい。優(ゆう)に初子さんの小説と対峙(たいじ)するに足るくらいだ。――だから、辰子さん。僕が好(い)い事を教えて上げましょう。これから初子さんが小説の話をしたら、あなたも盛に画の話をするんです。そうでもしなくっちゃ、体がたまりません。」
 俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し――大した事はございませんけれど。」
 するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄(たみお)が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段(はしごだん)を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
 俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。

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