您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 芥川 竜之介 >> 正文
戯作三昧(げさくざんまい)

底本: 現代日本文学大系 43 芥川龍之介集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1968(昭和43)年8月25日
入力に使用: 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷

 

    一

 天保二年九月の或午前である。神田同朋町かんだどうぼうちやう銭湯せんたう松の湯では、朝から不相変あひかはらず客が多かつた。式亭三馬しきていさんばが何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇じんぎ釈教しやくけう、恋、無常、みないりごみの浮世風呂うきよぶろ」と云つた光景は、今もその頃と変りはない。風呂の中で歌祭文うたざいもんを唄つてゐるかかあたばね、上り場で手拭をしぼつてゐるちよんまげ本多ほんだ文身ほりものの背中を流させてゐる丸額まるびたひ大銀杏おほいてふ、さつきから顔ばかり洗つてゐる由兵衛奴よしべゑやつこ水槽みづぶねの前に腰を据ゑて、しきりに水をかぶつてゐる坊主頭ばうずあたま、竹の手桶と焼物の金魚とで、余念なく遊んでゐる虻蜂蜻蛉あぶはちとんぼ、――狭い流しにはさう云ふ種々雑多な人間がいづれも濡れた体をなめらかに光らせながら、濛々もうもうと立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊もことして動いてゐる。その又騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使ふ音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木ひやうしぎの音がする。だから柘榴口ざくろぐちの内外は、すべてがまるで戦場のやうに騒々しい。そこへ暖簾のれんをくぐつて、商人あきうどが来る。物貰ひが来る。客の出入りは勿論あつた。その混雑の中に――
 つつましく隅へ寄つて、その混雑の中に、静にあかを落してゐる、六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。びんの毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはゐるものの骨組みのしつかりした、むしろいかついと云ふ体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残つてゐる。これは顔でも同じ事で、下顎骨したあごぼねの張つた頬のあたりや、やや大きい口の周囲に、旺盛わうせいな動物的精力が、恐ろしいひらめきを見せてゐる事は、ほとんど壮年の昔と変りがない。
 老人は丁寧に上半身の垢を落してしまふと、をけの湯も浴びずに、今度は下半身を洗ひはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹かひきが何度となく上をこすつても、脂気あぶらけの抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢と云ふ程の垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであらう。老人は片々かたかたの足を洗つたばかりで、急に力がぬけたやうに手拭の手を止めてしまつた。さうして、濁つた止め桶の湯に、鮮かに映つてゐる窓の外の空へ眼を落した。そこには又赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、まばらに透いた枝を綴つてゐる。
 老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼をおびやかしたそれのやうに、いまはしい何物をも蔵してゐない。云はばこの桶の中の空のやうに、静ながら慕はしい、安らかな寂滅じやくめつの意識であつた。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠る事が出来たならば――無心の子供のやうに夢もなく眠る事が出来たならば、どんなによろこばしい事であらう。自分は生活に疲れてゐるばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れてゐる。……
 老人は憮然ぶぜんとして、眼を挙げた。あたりではやはりにぎやかな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いてゐる。柘榴口の中の歌祭文にも、めりやすよしこのの声が加はつた。ここには勿論、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、微塵みぢんもない。
「いや、先生、こりやとんだ所で御眼にかかりますな。どうも曲亭きよくてい先生が朝湯にお出でにならうなんぞとは手前夢にも思ひませんでした。」
 老人は、突然かう呼びかける声に驚ろかされた。見ると彼の傍には、血色のいい、中背ちゆうぜい細銀杏ほそいてふが、止め桶を前に控へながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑つてゐる。これは風呂から出て、丁度上り湯を使はうとした所らしい。
不相変あひかはらず御機嫌で結構だね。」
 馬琴ばきん滝沢瑣吉たきざはさきちは、微笑しながら、やや皮肉にかう答へた。

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ... 下一页  >>  尾页

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

发表评论】【加入收藏】【告诉好友】【打印此文】【关闭窗口

相关文章

私の好きなロマンス中の女性(わたしのすきなロマンスちゅうのじょせい)
露訳短篇集の序(ろやくたんぺんしゅうのじょ)
LOS CAPRICHOS(ロス カプリチョス)
路上(ろじょう)
六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)
老年(ろうねん)
恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ(れんあいとめおとあいとをこんどうしてはならぬ)
るしへる(るしへる)
竜(りゅう)
羅生門の後に(らしょうもんのあとに)
羅生門(らしょうもん)
世之助の話(よのすけのはなし)
横須賀小景(よこすかしょうけい)
妖婆(ようば)
百合(ゆり)
夢(ゆめ)
誘惑(ゆうわく)
悠々荘(ゆうゆうそう)
槍が岳に登った記(やりがたけにのぼったき)
槍ヶ岳紀行(やりがたけきこう)
山鴫(やましぎ)
藪の中(やぶのなか)
保吉の手帳から(やすきちのてちょうから)
文部省の仮名遣改定案について(もんぶしょうのかなづかいかいていあんについて)
桃太郎(ももたろう)