十
「あとで、はい、理右衛門爺さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜ぐれえ執念深えあやかしの憑いた事はねえだって。
姉さん。
何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈け出して失せるだに、手許が明くなって、皆の顔が土気色になって見えてよ、艪が白うなったのに、舵にくいついた、えてものめ、まだ退かねえだ。
お太陽さまお庇だね。その色が段々蒼くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾の方が水際で膨れたあ、蛭めが、吸い肥ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張って、刎ねてるだ。
まあ、めでてえ、と皆で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物が一枚出来たっぺい、あん時の鰹さ、今年中での大漁だ。
舳に立って釣らしった兄哥の身のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」
と暮れかかる蜘蛛の囲の檐を仰いだ、奴の出額は暗かった。
女房もそれなりに咽喉ほの白う仰向いて、目を閉じて見る、胸の中の覚え書。
「じゃ何だね、五月雨時分、夜中からあれた時だね。
まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命がけで飛込んでさ。
私はただ、波の音が恐しいので、宵から門へ鎖をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
どんな烈しい浪が来ても裏の崖は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打つかるごとに、崖と浪とで戦をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾にして、冷いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊だのの中で、内の人は海から見りゃ木の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂れつつ、
「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫、ほろりとして、
「済まないねえ。」
奴は何の仔細も知らず、慰め顔に威勢の可い声、
「何も済まねえッて事アありやしねえだ。よう、姉さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
そのかわり今もいっけえよ。兄哥のために姉さんが、お膳立てしたり、お酒買ったりよ。
おら、酒は飲まねえだ、お芋で可いや。
よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡きます、あれは何ぞと問うたれば」
と、いたいけに手をたたき、
「石々合わせて、塩汲んで、玩弄のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚くわいのだ。……よう姉さん、」
奴は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」
女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」
と調子をかえて、心ありげに呼びかける。
十一
「ああ、」
「あのね、私は何も新しい衣物なんか欲いとは思わないし、坊やも、お菓子も用らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他の商売にしておくれな、姉さん、お願いだがどうだろうね。」
と思い入ったか言もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
奴は遊び過ぎた黄昏の、鴉の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上つき、
「姉さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」
「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」
とそわそわするのを圧えていったが、奴はよくも聞かないで、
「姉さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」
と烏の下で小さく躍る。
「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人[#ルビの「おっと」は底本では「をっと」]の帰る嬉しさに、何事も忘れた状で、女房は衣紋を直した。
「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
五六里の処、嗅ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
やあ、見さっせえ、また十五六羽遣って来た、沖の船は当ったぜ。
姉さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」
舌打の高慢さ、
「おらも乗って行きゃ小遣が貰えたに、号外を遣って儲け損なった。お浜ッ児に何にも玩弄物が買えねえな。」
と出額をがッくり、爪尖に蠣殻を突ッかけて、赤蜻蛉の散ったあとへ、ぼたぼたと溢れて映る、烏の影へ足礫。
「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」
黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。
奴ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
「何だって、漁師を止めて、何だって、よ。」
「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐いじゃないか。
内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家へ入って窘んでいても、向うが強ければ捉まえられるよ。お浜は嬰児だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」
としみじみいうのを、呆れた顔して、聞き澄ました、奴は上唇を舌で甞め、眦を下げて哄々とふき出し。
「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よう、姉さん。」
「そりゃ鰹や、鯖が、棹を背負って、そこから浜を歩行いて来て、軒へ踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」
と女房は早や薄暗い納戸の方を顧みる。
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